これまでの歩み

有限会社楠野製作所

これまでの歩み

楠野の歩み

楠野製作所が大阪の下町に工房を構えて40年以上が経ちます。
スマートボール」等、ファミリー向けの小型遊戯機の製作から始まった楠野製作所ですが、「他に例を見ないクレー ンゲームを作るメーカー」に至るまでの道のりは、山あり谷あり。
決して平坦ではありませんでした。
ここでは、創業から現在に至るまでの当社の歴史を、二代目代表・楠野博美がご案内します。
激動の時代からモノが溢れる時代へ。その頃あなたは何をしていたでしょうか?

◆創業(1968年)

大阪市西成区にて「楠野製作所」を構える。
初代社長が従業員1名と共に、ファミリー向けの遊戯機として「パチンコ機」や「スマートボール機」を製作することでスタートを切った。当時としては「売り上げの中から15万円取れれば、家族が1ヶ月暮らしていけた。」と社長は語っていた。
スマートボールには決まった球数で勝負するビンゴ系のような滞留式と、出球がどんどん自動配給される循環式があるが、その両方を当社は製造していた。
パチンコ機は営業店のパチンコ台のお下がりを仕入れ、中身を取り外した外枠に独自の、手作りの盤面をはめ込み、遊園地に販売した。全てが電気を使わない自動循環式であった。
また今の時代としては考えられないことだが、「スマートボール機」も「パチンコ機」も全てバランス仕掛けで電気を使用していなかった。電気は注文に応じて音やランプに使ったぐらいであった。

◆設立(1976年9月20日)

有限会社楠野製作所を設立する(資本金:800万円)。社長と従業員5・6名で子供用「パチンコ機」や「スマートボール機」を継続生産しながら、10円で遊べるプライズゲーム機などを手掛ける。
この頃に大学を卒業して銀行に勤めていた現二代目社長が、勤めを辞めて家業を手伝うことになった。
パスボール」が好調な上にパチンコ機なども注文が入っていたので、ずっと残業ばかりが延々と続いた。
毎晩11時過ぎまで仕事をするので、みんなの朝の出勤時間が10時ごろにずれ込むようになり、だいぶ取引先からブーイングをもらった。その当時は隔週休暇すらなかったのでみんなが疲労困ぱいしていた。
こうして絶好調の状態で売れ続けて販売台数が1000台に達する勢いのパスボールであったが、いいものを発明してヒットを打ったからと言って、いつまでも独走は許してもらえないのが世の習わしで、結局2年もすると類似商品が出現して、それらに引っ掻き回される形でパスボールフィーバーは終焉を迎えることになる。

◆低迷期(1983年)

楠野製作所では、「パスボール」以降、話題に上るようなゲームには恵まれなかったが、世間では、ブロック崩しに続きインベーダーゲーム等の、テレビゲーム機が全盛となり、業界はソフト開発、新TV機種開発に乱舞していた。
全ての力がTVゲームに注がれ、そういう状況で自社が製造していたわずかなローテク機も、やがて需要が途絶えて消滅してしまうことになる。
また取引会社からも、「ハイテク時代の世の中にあっては不要なローテク会社」という烙印を押され、本来のゲーム機作りから離れて、専らTVゲームの改造ばかりにいそしむ会社となってしまう。
社員は既に私以外には誰もいなくなっていた。
2年の間、自社にとっての灰色の時代が過ぎ去るのを、ただじっと我慢強く待つ毎日となる。
その間に社長が二代目と入れ替わる静かなる異動があった。
皮肉なことに、同じ時代を生きた仲間たちは、この時期に会社を急成長させていた。

◆転換期(1987年)

先代が会長職に退き、私が二代目の社長に就任したときには、相変わらず一人の社員もいない状態だった。
自分の力と、ときどき会長の経験や腕を借りながら、何も考えずにできる仕事をがむしゃらにこなす毎日が続いた。
笑い話になるが、友達の結婚式で一日休んだだけで、あとずっと一年間仕事をし抜いた思い出もある。
社長就任以来、結構長い間苦境が続いたが、長いトンネルもいつか出口が見えてくるもので、アメリカの遊園地事情に明るい会社から、「アメリカ国内で人気の高いカーニバルゲームがあるが、著作権の問題はこちらで対応するので作ってみないか。」と声を掛けられた。
当時、国内のアミューズメント業界のハイテク化にはついていけないという自社事情も絡んで、「渡りに船」状態で引き受けることになる。
アメリカでも日本と同じように、ソフトを駆使したテレビゲーム機が隆盛を極めていた。
しかしまた一方で、まだ泥臭さを感じさせられる大型ゲーム機(カーニバル機)も生き残っており、新旧融合というか、ハイテク産業と共にローテク産業もしっかり発展しているというところが実に興味深く、自社にとって一つの方向性を考える上で大きなターニングポイントとなった。
この時期にカーニバル機「カンボール」が生まれる。

◆安定期(1993年)

急場しのぎで始めたカーニバルゲーム製作であったが、他に競合相手がほとんどなかったという環境にも恵まれて、数年間楽しいカーニバルゲーム機作りに取り組むことができた。
その間カンボールなんかはどんどんデザイン、技術共に進化した。
カンボールは組立に大工の技量が要るので必ず自社で現場設置しなければならなかったが、その後に折りたたみ式のものが考案されるに至った。そこに電飾まで装備して、コンパクトな形にするなど、設置作業を簡単にしたので、それからは社員が出かける必要もなくなり、現場に直接発送するという仕組みも誕生して、作業効率も格段に向上する。平成のバブルははじけても自社の景気はすこぶる順調であった。

◆原点思考(1994~95年)

カーニバル機のニーズを支えていた遊園地の経営状態が一様に悪化したり、地方博覧会が集客減の問題で開催が少なくなったり、各地でのイベントが縮小したり、それに伴って自社のカーニバル機も需要が激減することになり、自社もやがてバブル崩壊の余波に飲まれるところとなる。
その上に1995年1月の阪神淡路大震災である。
自社としては、人的被害は受けなかったものの、多くの神戸のゲームセンターが壊滅したその影響を受け、主力製品が一斉に生産ストップに追い込まれ、心肺停止状態寸前に至った。そんな状況下で、自社にできることや方向性を模索する日々が続いた。
いろいろ苦慮したあげく、再び原点であり得意分野でもある「スマートボール作り」に戻ることを決意する。
そんな時に大手スーパー子会社のアミューズメント会社の社長さんが当社を訪ねて来られて、新しい時代のスマートボール機作りを共同で目指すことになった。
当時自社が暇に任せて作った、全自動スマートボール機「ファイター16」いう機械をその会社の社長さんが見て感動したらしく、それがきっかけとなり、スマートボール機「キッズボウル」を開発し、製造することになる。

この頃には、いくら銀行員上がりといえども、3機種ぐらいの遊戯盤を開発していたが、あまり商売には結びつかなかった。
まだ未熟だったので、キッズボウルのほとんどは会長に頼ることにした。
キッズボウルは、子供用全自動プライズ機のことで、その後もOEMを柱として、子供用遊戯機を供給することになる。
ヒット商品スマートキッズシリーズが生まれ、それを仕事の柱として子供向け遊技機製作に専念し、OEM供給をし続けた。

◆視点変換期(1999年)

子供用スマートボール機「キッズシリーズ」も5機種を数えるころになると、次第に売りづらくなり、業界全体の景気の停滞というあおりを受けて、生産ロットも100台から50台、30台と縮小を余儀なくされ、結果7機種をもって終了となる。
得意のプライズ機スマートボールの分野での製作活動が途絶えてしまって、またもや次の道を模索せざるを得なくなったときに、某販売店からの提案により、クレーンゲーム機の中にセットする「風船割りキット」を作ることになり、それが意外な爆発的ヒットとなる。
このキットのおかげで機械作りの要領とか方向性とかが見えてきて、従来の視点を切り変えるという意味ではとても意義深い経験となる体験であった。

◆挑戦期(2001年)

子ども用ゲームから脱却し、大人も楽しめる機械の企画・設計に視点を変える。
クレーンゲーム用キットをシリーズ化して製造するということを続けながら「カーニバル・デイ」「ファン・ファン・ファン」といった大きいサイズのプライズ機製作に取り組む。
はじめての試みながら、機械作りをまずまず無難に成功させたものの、何といっても遊技の中身はやはりスマートボールやパチンコの応用編で代わり映えがしなくて、まだこの時点ではクレーンゲームと呼べる体を成してはいなかった。
その中で、箱型三本爪クレーンゲーム「クリスタルクレーン」が、物知りの知人の発明家に助けられて、完成に至ったことが自信となり、それがクレーンゲーム作りに興味を抱く動機となる。

◆飛躍期(2003年)

新年がスタートして間もない頃、年末にロケテストで2箇所に設置したクレーンゲーム「ファン・ファンタジア」の試作機が、いきなりすごい売上を記録したとの縁起のいい話が飛びこんだ。これもまた発明家の知人に助けられたとはいえ、はじめて手がけた本格的クレーンゲーム作りで、思いもよらぬ嬉しいお年玉をもらった感じがした。
即、周囲の協力を得て量産体制を整えることになる。結局このプライズゲームはシングルタイプも含め、その年のうちに500台を売ることになった。自社の残業は毎日深夜までに及び、それが一年間延々と続いた。

◆充実期(2005年)

販売台数が落ち着いてきた翌年に、「ファンタジア・プラス」「ファンタジアエナジー」と棒落としゲームをシリーズ化して二つの販売ルートに乗せたら、その翌年2005年にはまた数字が伸びて、クレーンゲーム製作の初期の頃の勢いが戻り、また以前のようなきつい勤務体制が戻ってくることになり、うれしい中にもそれがちょっと悲しいことでもあった。
そしてその年の終盤に、後に名作と評価されたクレーンゲーム「バーバーカット」が誕生することになる。
バーバーカット」は過去に前例のない、景品を吊り下げた紐をハサミで切り落とすという業界初のカットゲーム機で、自社のエースを担うべき役割を背負っていた。

◆失速期(2007年)

斬新な内容と目立つ外観で話題になった「バーバーカット」であるが、世の中の悪くなってきた景気にも押され、期待通りの活躍はなかなか難しいものがあった。少し停滞しているムードを変えるために、またしてもファンタジアシリーズの進化版クレーンゲーム「ファンタジアスイング」を製作する。ずいぶん時間と資金をつぎ込んで「これでもか?」というところまで、メカや見栄えにこだわった。
この機種も「バーバーカット」同様、自分の力で作り上げた秀でたクレーンゲームという思い入れもあって、衝動的に200台の見切り生産に踏みきってしまった。この2種類の機械をメインに据えての仕事の展開は、自社の理想の形と思い込んでいたので、ずいぶんと期待を膨らませていた。
ファンタジアスイング」は、最初は販売店のネームバリューも手伝って、数十台は順調に売れたものの、背景となる時代も一段と難しい局面に入っていたのか、それっきり売れなくなってしまった。そこでまた新しい展開を考える羽目になったが、それから数年間、この負の遺産「ファンタジアスイング」130台の在庫に長年悩まされることになる。

◆反転期(2008年)

生産量の落ちた「バーバーカット」をてこ入れするために、移動手段(カット部)が奥から手前にやってくるリバーシブル構造とし、様々な機能の充実などを盛り込んだ新機種「バーバーカット・リバーシブル」を開発する。
アップグレードを達成した「バーバーカット」は期待通り強力になり、停滞していた販売数が再び伸びることになる。
さらに某大手さんの海外現地生産を助けるために、海外での「バーバーカット」の製造権を貸与し、同時にメインパーツの供給を楠野製作所で担当することになる。「バーバーカット・リバーシブル」が確実に自社のエースとしての地位を固めていったことを証明したときでもある。
反面、もう一方のエース候補「ファンタジアスイング」は相変わらず泣かず飛ばず状態であったため、仕方なくその穴を埋めるべき新機種「リングマジシャン」「2in1コスモス」などを開発する羽目になる。

◆充実期Ⅱ(2009~2010年)

バーバーカット・リバーシブル」はこんな時代としては、かろうじて好調を維持していた。
また海外用パーツ供給はかなり伸びてきている状態で喜ばしいものがあった。
そういう中で、2010年6月に会社を住之江区に移すことになった。
前の所在地は、環境並びに敷地面積の問題などもあったので、移転を決意することとなる。
近年、特にホームページの果たす役割や重要さを強く認識するようになり、ホームページの開拓に時間を費やすようになった。
ホームページを販促の手段として真剣に考えるようになり、「エアー抽選器」や「景品人気計測器」、「ロープクリップ」をネット専売商品にしたりして、いずれは100万円の機械でも取引される仕組みを作るための下準備と捉え、その勉強にかなりの時間を充てるようになった。

以後2年の間に、ネット上で自社製品を販売しようと、その仕組みづくりにまい進してきた。
最近ネット上で、「エアー抽選器」や「景品人気計測器」、「ロープクリップ」など着々と次第に売れるようになった。
「ホームページを見た、あれを買いたい」という具合に、自社製クレーンゲームまでも売れることがたまにあった。
まだまだネット販売での100万円の商品の取引など非日常の世界であるが、やがてそれを日常の世界にするように毎日努力を積み重ねている。

◆開発期Ⅱ(2011年)

最近の楠野製作所の業績は海外に頼るところが大きかったが、それでも海外は水物と割り切り、国内での販売活動に本腰を入れることが可能な環境となっていた。
自社の製品の価値・独自性を、どう顧客に伝えていくかが、将来の大事な取り組みとなる。
一年間で「2イン1スクラム」「バーベキュータイム」「押してもだめなら」「アダムスキー」などを新製品として開発し、その片手間に既製品の改良にも取り組む。
トリプルダウンスイング」、「スイングランディング」、「2イン1コスモス」、「リングマジシャン」などもしっかり改良した。
ついでに、上下に分離できて移動を楽に安全にしたシングル筐体も開発した。前年の順調な一年に比べると、平坦な道ではなかったものの成果物を見ると、それなりの満足と納得のいく日々であった。

◆転換期(2012年)

プライズ機の開発を最優先で進めてきたのでいつの間にか機種が10種類になった。使用目的に合わせて機種選びができるように、バランスの良い機種作りが達成できたと思っていたが、ものごとはなかなか計算通りには運ばないらしい。
客層に合わせて、あるいは周りの機種との調和を考えて、状況に応じて当社のプライズ機を選んで購入してもらったらいいと、持っている機種の多さに満足していたが、お客様の選択肢は常に一つしかないらしく、ほとんど購入は「バーバーカット・リバーシブル」に集中してしまうケースが多かった。バーバーが選ばれる理由はやはり高収益が見込める機械というところだった。

◆覚醒期 (2013年)

アミューズメント業界の景況は、相変わらず下降線を辿っている。そういう中であれこれと奮闘努力しても、結果は芳しくないだろうとの判断の下に、外部のイベント産業に目を向ける方針を打ち出した。とは言っても、ダイナミックなイベント機を作ろうというのではなく、自社の得意とするゲーム機作りの延長線上で、できる取り組みに対してのものに限定しての話である。
イベント業界参入という方針が自然に打ち出せた裏には、もう既に自社製のエアー抽選器がイベント業界で評判になっていたという明るい事情も手伝ってのことであった。
自社のクレーンゲーム達が「バーバーカット」を除いては、どれもこれも活躍していない現状は好ましくないので、この辺の問題とも向き合い改善することも大事な仕事となる。
ただ、今までずっと残り続けた大きな負の遺産「ファンタジアスイング」が長い時間を掛けてでも、ようやく全数売れるに至ったことには、正直ホッとし、気持ちも和む思いである。

◆順風期(2014年)

昨年の末に専務が変更開発した「バーバーカット」の子供バージョン「ちっちゃいバーバーカット」が、歳の初めから順調に売れ行きを伸ばしている。やはり、大人用の「バーバーカット」の実績があるだけに小さくしても売れるのが早い。それどころか、子供や女子、ファミリーなどの新規ファンも開拓している姿に感動する。
前期のうちに、ほぼ予定の500台を売り切った実力は何とも頼もしい限りである。とは言っても、ほとんどOEM供給の形の取引だから、当社の利益率は大変低い。従って、この商品を主軸に据えるのは難しいとの思いもある。だからより一層、イベント業界への取り組みや働きかけは進めなければならない。
とても具合のいいことに、「ちっちゃいバーバーカット」はイベント業者さんの中では、「エアー抽選器」同様に評価が高く、レンタルの引き合いも多いのは願ったり叶ったりである。
当社には他にもイベント機として、自転車を漕いで月への到達時間を競う体感ゲーム「ムーンサイクルライダー」があるし、プライズ機ちっちゃいシリーズの第二弾として開発作業に着手している機械もある。
そういうことでは、自社のゲーム機作りでイベント業界への方々、あるいはイベントを行いたい方々の、お役に立てる舞台が少しずつ整いつつあるのは、嬉しい限りである。

◆開発期Ⅲ(2015年)

イベント機が3機種に増え、次第に売上と共にイベント部門が成長している。10連結まで可能なレース機能を備えた「ップランナー」の注目度の高さも、将来の展望を明るくしている。

アミューズメント関係では、市場に投入した「ちっちゃいバーバーカット」が好調に推移したため、それまで大きな動きのなかった「バーバーカット・リバーシブル」もそれに触発され、活発な動きを見せている。
この現象は比較的高価な「バーバーカット」に手を出しづらかったユーザーさんが、とりあえず経済的な「ちっちゃいバーバーカット」を購入して様子見をして、それで安心して、大型のバーバー購入意欲を高めることに繋がったことも一因と考えられる。

その他の取り組みとしてこの一年は、近年記憶がないほど多くの開発(ゲーム、メカ、部品)もたくさん手掛けている。

◆現在進行中(2016年~2017年)

いつまでも好況感が続くなどと当てにすることなく、イベント機やプライズ機の開発に精を出したので、イベントの分野では、エアー抽選器「水族館くじ」のミニサイズ「くじクル」が誕生することとなる。また「トップランナー」のアップグレードも達成している。

一方プライズ機の分野でもバーバーカットの誕生から10周年ということで、「バーバーカットアニバーサリー」を発売し、ほぼ同時期に小型サイズの風船割りゲーム「バルーンホッピング」も開発に一年以上の歳月を経て誕生した。この風船割りゲームは「運営に手間がかかる」「比較的高額」という向かい風の中での発進となった。しかしながら、数々のロケテストの結果などから商品性に自信を持つこととなり、まもなく大型2Pサイズの「バルーンホッピング」開発への呼び水となる。

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